Toy と帽子と ADP BE

主にプログラミングに関わる話をゆるくエモくやっていきます

「関西Javaエンジニアの会(関ジャバ) '18 4月度」に行ってきました

kanjava.connpass.com

に行ってきました。 うらがみさん、だいくしーさん、じゅくちょーさんの、キャリアのお話です。

うらがみさん

コードを書き続けるということ

  • 自分のやりたいことはいつまでも楽しくコードを書くこと
  • 自分の仕事は、お客様に価値を届けること

という前提で、これを両立させるために動く、楽しくコードを書くことが結果としてお客様に価値を届けることに繋がるように「していく」というお話がありました。

私もできることなら生涯プログラマでありたいと思っている人であります。 ただ、お客様に価値を届けるという命題を前にして、また今の自分が提供できる価値(あるいは自分の存在価値)ってなんだろうと自分に問いかけてみて、それはコードを書くことではない他の何かかもしれないと思うようにもなっています。 それを受け入れるにしても、プログラマであることを貫き通すとしても、それ相応の努力やスキルや環境やその他もろもろが必要で、どこを通っても楽な道なんかないんだよなぁなんてことを考えてながら聞いていました。それはたとえばうらがみさんが GitHub に草を生やし続けたような、地道で大変な努力だったりするのでしょう。

あと、最初に挙げた二つの事柄をつなげることは仕事という観点においてはとても重要で、つまり職業としてプログラマをやっているのであれば「何のために」コードを書くのかは常に意識しなければならないということを忘れてはいけないのだと思います。 残念ながら、プログラマ(エンジニア)であり続けたいという人の中にはコードを書くことだけが目的になっている人がちょいちょいいるのが現実ですので。なにより、かつての自分もそうだったかもしれませんし。自戒も込めて。

だいくしーさん

プレイングマネージャーは管理職なのか?

だいくしーさんいわく、それは厳密には違うということ。それは確かにそのとおりで、自分が手を出してしまうのなら結局自分がやったほうがはやいというところから抜け出せていないということですから、そりゃマネジメントしているとは言いがたいですねぇ。

また、「信頼できる有能なエンジニアに恵まれているから」というような趣旨のことを言われていたように思うのですが、恵まれなかったらどうするのだろうと思ったり思わなかったり・・・。いや、そんな仮定の話をしても仕方ないのか、とか。有能な人に恵まれることもスキルのうちなのか、とか。 仮に理想と現実にギャップがあったとしても、それを埋めるために「マネジメントスキルという技術」があるのだよ、という話なのかもしれないし、とか。仮に恵まれない環境があったとして、そこから自分の力で抜け出すことも含めてキャリア形成ということなのかなぁ?とか。 まあなんかいろいろ考えてしまいました。

でも私はまだその領域に足を踏み入れていないので、やってみないとわからないことはあるだろうし、だいくしーさんとは違う私なりの方法論がきっとあるのだろうし、そのときそのときで対応していくしかないのかなとは思います。

管理職は資質が必要?

だいくしーさんいわく、後天的に習得可能な「技術」である、ということ。また、エンジニアリングのマネジメントはエンジニアリングの勘所がわかっていないと難しいということ。

言われることは本当によく理解できるのですが、それって誰でも習得できる技術なのだろうか、という疑問が。好き嫌いもあるし向き不向きもおそらくあるしどうなんだろう・・・。 いや違うか、そもそも(やっても)できない人にマネジメントさせる時点でおかしいのか・・・。でもじゃあそれって生存バイアスなのでは、という気がちょっとしました。

じゅくちょーさん

ちょっと公にできない話が多くてあれなんですけどw、まああれですね、控えめに言ってど変態ですね。いい意味で。

真面目な感想としては、行動を起こさないとチャンスは来ないし結果も出ないということがよくわかりました。 あと、自分(たち)のサービスを自分で責任を持って仕事できないといろいろつらいというのは本当にそう思います。

まとめ

今、まあまあ人生の岐路のようなところに立っていて、今日の話はなにかの参考になるはずという考えと、もしかして迷いが深まるんじゃないかという懸念の両方があったんですけど、見事に両方当てはまってました。

ただ、はっきり言えることが一つあります。経験豊富な人たちのキャリアの話はとても興味深いしためになりました。けど、それは私のキャリアではありません。そして、わたしはうらがみさんでもだいくしーさんでもじゅくちょーさんでも他の誰でもないのです。 なので、結局のところ自分のキャリア(人生)は自分にしか決められないし、自分で考えて自分で決めるしかない、ということです。